松村宗棍:沖縄空手の基礎を築いた巨匠の生涯と遺産

沖縄空手の歴史において、松村宗棍(まつむら そうこん)はその発展と普及において極めて重要な役割を果たした人物です。本記事では、松村宗棍の生涯、武術的な哲学、そしてその教えがどのように現代の空手に受け継がれているかについて詳しく探っていきます。松村宗棍の歴史的な背景と影響力を理解することで、沖縄空手の魅力に迫ります。

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松村宗棍:琉球武術の巨星

松村宗棍(まつむら そうこん)【1809年 – 1899年?】は、琉球王国時代から明治にかけて活躍した最も偉大な武術家の一人で、首里手の始祖とされています。松村は、唐手術の稀代の使い手であるとともに、古武術や薩摩「示現流」の使い手でもあり、「ブシマツムラ」として世に名声をほしいままにした武術家です。また、書や文人画など諸事一般に天賦の才を示しました。

生い立ちと背景

松村宗棍は1809年、首里山川村(現在の那覇市首里山川町)に生まれました。唐名は武成達、位階は筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)であり、号は雲勇、もしくは武長と称しました。俗に「武士松村」と呼ばれ、王朝時代の正式な呼び方は「松村筑登之親雲上宗棍」です。松村家は、第一尚氏王統の血筋を引く由緒ある家柄であり、位階こそ高くはありませんでしたが、琉球王国において重要な地位を占めていました。

武歴と修行

幼少のころから武術に興味を持ち、15歳前後にはすでに武術家として頭角を現していたといいます。佐久川寛賀や真壁朝顕が松村の唐手の師匠だという説がありますが、いずれも確認されていません。ただ沖縄固有の武術〈手〉(ティー)は、主に琉球王府に仕えた首里士族のなかで受け継がれ、文武両道に優れた人物を輩出していますので、首里士族に生まれた松村は、こうした環境の中で武術を極めたと考えられます。

成人して琉球王府の役人となった松村は薩摩に派遣され、そこで「示現流」と出会います。示現流を開いた東郷重位から数えて4代目にあたる伊集院弥八郎兼喜に師事し、免許皆伝になるまで剣技を磨きました。「一の太刀を疑わず、二の太刀要らず」という「示現流」の一撃必殺の極意は、松村の唐手の基本思想に大いに影響したと考えられています。松村は、その生涯で中国福建省福州に2回、薩摩に2回派遣されており、福州滞在時は中国拳法、薩摩滞在時は剣法の修練に励んでいます。

1836年には師匠の佐久川寛賀と共に北京へ渡り、北京王宮の武術教官「イワァー」のもとで中国武術も学びました。1839年には北京の善撲館で日本剣術の妙技を披露し、その卓越した技術により師範の礼遇を受けたことが記録されています。

琉球王国での役割

帰国後、松村は第二尚氏王統の17代尚灝王、18代尚育王、19代尚泰王の三代にわたって御側守役を務めました。ただ、王府役職制度に「御側守役」という役職名は存在しないので、これは私的もしくは臨時の役職であったのではないかと考えられています。また、松村はそのかたわら、国王の武術指南役もつとめたと伝えられています。彼の妻・与那嶺ツルも女流唐手家であり、夫婦で武術の普及に努めました。

晩年は、首里崎山町にあった王家別邸・御茶屋御殿で、弟子達に唐手を指導し、1899年、91歳の長寿で没しました。

弟子と教育

松村は晩年、首里崎山町の御茶屋御殿で弟子たちに唐手を指導しました。彼の弟子には牧志朝忠、安里安恒、糸洲安恒、知花朝章、本部朝勇、本部朝基兄弟など、多くの優れた武術家が含まれていました。松村の稽古法は、実戦(組手)と柔軟性を重視し、型稽古に偏らないものでした。

弟子の一人、屋部憲通は松村の稽古法について「3、4回型をしたあとは真剣の練習試合を行った」と述べており、松村の稽古法が組手を主体としていたことを強調しています。

松村宗棍のスタイル

弟子の糸洲安恒が型稽古に主軸をおき、また那覇手の影響を受けて「身体を堅める稽古法」を重視したのに対して、松村宗棍はむしろ実戦(組手)と柔軟性を重視した稽古法だったとされる。

義村仁齋は「自側武道記」のなかで「松村翁は豪力で敏捷で、典型的な武士気質であった。それでよく『武士は神速を尊ぶ』と訓えていた」と記述していますし、直弟子の本部朝基は著書『私の唐手術』の中で、「松村先生は(中略)決して力一方の武士ではなかった」「常に静中動きを見て運用自在であつた」「常に其の型の稽古は力の入れ方及び型の運用に意を注いで居れた」と語り、その稽古法が敏捷性や型分解、組手を重視していたものであったとしています。

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松村宗棍遺訓

松村宗棍を語る上で欠かせないのは、唐手修行者の心得るべき文武両道のあり方を説き示したことです。晩年、高弟桑江親雲上良正に武術修行心得ともいうべき追訓を残しています。

そのなかに
●文武の道は同一の理なり。文武共に其の道三つ有。
●文道に三つと申すは詞章の学、訓詁の学、儒者の学と申候。
●武道に三つとは学士の武芸、名目の武芸、武道の武芸有り。

と記し、「武道の武芸」を嗜むべき方向としています。また、武術修行者の求めるべき精神の道を中国古来の武術観である「武の七徳」に求め、「武は暴を禁じ、兵をおさめ、人を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする。是れ武の七徳と申し、聖人も称美し呉れ候段、書に相見え候」と説いています。

松村宗棍のエピソード

松村宗棍には武人として多くの逸話が残されていますが、その一つに猛牛と戦う話があります。

王の命を受けて猛牛と闘わざるをえなくなった松村は、黒装束に身を固め、手には鉄扇をもって毎日のように牛舎に通い、猛然と闘志をあらわにする猛牛の脳天めがけて鉄扇を打ちおろし、松村への恐怖を植え付けました。当日、黒装束と鉄扇という出で立ちの松村を見た猛牛は恐怖を覚え、完全に戦意を失って松村の二歩前進とともに恐怖の叫び声を上げて逃げてしまったのです。

このような松村にかかわるエピソードは数多くあり、創作的で非現実的なものも含まれていますが、いずれも松村が戦略的にも戦術的にも非凡な武人であったことを物語るエピソードです。

今野敏の著書『宗棍』について

松村宗棍の生涯と業績は、作家の今野敏氏によっても描かれています。今野敏氏の著書『宗棍』は、松村宗棍の生涯をフィクションとして描きながらも、彼の武術的な技術と精神的な哲学を詳細に紹介しています。この作品は、松村宗棍という偉大な空手家の人生に迫り、彼の業績と影響力を広く伝えるものです。今野氏は、宗棍の生きた時代背景や彼の人間性を丹念に描写し、読者に対して空手の深遠な魅力を伝えています。

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まとめ

松村宗棍は、沖縄空手の歴史における重要な人物であり、その教えと技術は今日の空手にも大きな影響を与えています。彼の生涯と業績を通じて、空手の技術と精神がどのように発展してきたかを理解することができます。松村宗棍の遺産は、空手を学ぶ者にとって貴重な財産であり、彼の哲学と技術は今も多くの空手道場で受け継がれています。
今野敏氏の著書『宗棍』もまた、彼の生涯と影響を理解するためにオススメします。

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