【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点

【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点
📅 公開 2026.05.28|⏱ 読了 約14分

誠空会には、職業も趣味も生き方もそれぞれ異なる、個性豊かな人たちが集まっている。

どのような経験を重ね、どんな思いで誠空会に通っているのだろうか。一人ひとりの声を聞いてみたい。そんな思いから、連載「誠空会の人たち」を始めることにした。

その第一弾となるのが、誠空会3代目代表の田中幸尚先生だ。

元日本王者であり、デザイナーであり、飲食店オーナーでもある。さらにレゲエアーティスト・NANJAMANのDJとしても活動している。一つの肩書きでは、とても語り切れない存在だ。

幼いころに憧れたのは『ドラゴンボール』の孫悟空。道場に通えない時期も、一人で型を磨き続けた少年は、どのように誠空会と出会ったのか。全3回で、その歩みをたどる。

第2回:バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと(5月29日公開予定

第3回:「怖い」イメージを捨て、青とオレンジの道場へ。3代目代表・田中幸尚先生が仕掛ける、これからの誠空会(6月2日公開予定

4歳で出会った空手。小学2年生で訪れた転機

1986年、神戸で生まれた。両親と妹の4人家族。父親は当時としては珍しく、パソコンを使った進学塾・予備校を経営し、母親は幼児教育に携わっていた。

そのため、幼少期からパソコンが当たり前のように生活の中にあった。まだWindowsが広く使われる前、コードを打ち、フロッピーディスクを入れてゲームをするような時代である。

一方で、ファミコンやテレビを自由に楽しめる環境ではなかった。テレビはあまり見せてもらえなかったが、『ドラゴンボール』は数少ない楽しみの一つ。気づけば、孫悟空は憧れの存在になっていた。

「ドラゴンボールは人気があったし、当時の男の子はみんな好きじゃないですか。もちろんその影響もあるんだけれど、空手は最初、“姿勢が悪いから武道でも”という親の一言で4歳から通い出したんです。当時はピアノと水泳と和太鼓もやっていました」

【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点
誠空会3代目代表 田中幸尚先生

田中先生が始めたのは、糸東流伝統空手。ただ、早くから始めたからといって試合で勝ち続けるような子どもではなかった。本人も「強かったという感じではない」と振り返るように、あくまでも、習い事の一つといったところだった。

転機は小学2年生のころに訪れる。阪神・淡路大震災を機に、神戸を離れることになったが、引っ越し先には通える道場がなかった。

「近所に空を飛べるという空手の先生はいたんですけどね(笑)。親はそれはちょっとね…といった感じで。だから、仕方なく道場に行かないで自分で練習していました」

道場に通えない8歳が一人で磨いた型

道場に通えなくなった。それでも、空手から離れたわけではない。

8歳の田中少年は、仏壇のある畳の部屋で腕立て伏せをこなし、図書館で借りた空手の本を見たりしながら、覚えている基本の技や型を一人で繰り返していた。それは高校生になって誠空会に入門するまで続いた。

「家で“えいえい”ってずっとやっていました。誰かに教えてもらった記憶はないです。本を見て勉強していました。時々、父が相手をしてくれたくらいです。

あとは友だちと公園で戦って遊んでました。泥団子を使ったり、木から飛び降りたりして。ドラゴンボールの真似ですね」

この時期は、学校にあまり行かないこともあった。

「ある程度、家で勉強するじゃないですか。だから、学校の授業があんまり面白くなかったんです」

家にはパソコンも参考書もあった。知りたいことに触れられる環境が身近にある一方で、学校という場所はどこか性に合わなかったのかもしれない。

その分、本はよく読んだ。好きだったのは『ズッコケ三人組』シリーズ。コナン・ドイルの探偵もの。青い鳥文庫も読んだ。図鑑も大好きだった。学校の教室にある本を読みあさり、同級生と比べてもかなりの読書量だったという。

本を読み、街へ出て、音楽をたどる日々

中学時代には空手部にも顔を出したが、本格的に打ち込むほどではなかった。むしろ、学校へ向かわず、電車で梅田や十三へ出かけることも。『ろくでなしBLUES』に出てくるゲーセンに憧れたが、そこまで夢中にはならなかった。

よく通ったのは、豊中にできたブックオフ。朝から晩まで立ち読みし、中学生になると東野圭吾や恩田陸の小説にはまっていった。

そして、音楽もまた、田中先生の興味を広げていったものの一つだ。

小学校や中学校のころはロックをよく聴いていた。アニメをきっかけにB’zやザ・ハイロウズを聴き、そこからエアロスミスやガンズ・アンド・ローゼズへ。さらにヤードバーズ、エリック・クラプトンを経て、ボブ・マーリーにたどり着く。

レゲエを聴くうちに、ジャマイカからニューヨークへ渡った音楽がヒップホップにつながっていくことも知った。幼いころに何気なく聴いていた曲が、あとから自分の中でつながっていく。

「意識しては何もしてないです。行き当たりばったりがいつの間にかリンクしていく感じですね」

道場に通えなかった時期は、空白ではなかった。

【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点
のちにDJとしても活動することになる田中先生。インドの「Outlook Festival」に出演した際の一枚

完膚なきまでに叩き込まれた大人の強さ

そんな田中先生が誠空会に入門したのは、高校1年生のころ。

遊び回っている様子を見た親から、「もう一回ちゃんと道場に行ったら」とすすめられた。川西に誠空会の道場があり、同級生が通っていたこともあって、田中先生は入門することになる。

「よく分からんけど行ってみた、みたいな感じですね」

そこで出会ったのが、初代館長の碇井先生、そして当時、指導にあたっていた御手洗さんだった。特に御手洗さんは、田中先生の修行時代に大きな影響を与えた存在である。

御手洗さんの稽古は、道場内でも際立って厳しかった。別格の強さを持ち、誰もが一目置き、同時に恐れられていたという。

入門してしばらくすると、田中先生は同年代の強い選手と練習するようになった。もともと空手の基本はある程度できた。その様子を見た御手洗さんから、「ちょっと受けたるわ」と声をかけられる。

その一言で始まったスパーリングは、それまで積み重ねてきたものを一瞬で覆すものだった。結果は、立てないほどに叩きのめされた。

「初めて完膚なきまでにやられましたね。やっぱり大人って強いなと思って」

一人で磨いてきた型や基本は、決して無駄ではなかった。ただ、本当に強い相手の前では、それだけでは通用しない現実を突きつけられる。しかし、この体験は挫折では終わらない。ここからが始まりだった。

「気に入られたんでしょうね」

その日を境に、田中先生は御手洗さんと約3年間、徹底的に鍛えられることになる。

それまで一人で続けてきた空手から、逃げ場のない実戦の世界へ。ここで初めて本当の強さと向き合う日々が始まった。

「死ぬな」と思いながら食らいついた3年間

強く殴れ、早く蹴れ、頑張って立て──。

16歳から18歳ごろまでの3年間、田中先生は御手洗さんをはじめ先輩たちから厳しい稽古を受けた。特に記憶に残っているのは、スパーリングだ。3分間のスパーリングを何ラウンドもくり返す。

「僕は一番小さかったんで、50㎏あるかないかくらいで。そこで現役ばりばりの先輩たちとスパーリングをしていました。このまま真面目にやっていたら、死ぬなと思って。

一般クラスが終わったあとに僕らの練習が始まるので、それを見ていた他の人たちはちょっと引いていたかもしれないですね」

もちろん、今の誠空会では怪我をしないよう、安全に配慮しながら練習を進めている。当時とは、稽古の雰囲気も大きく違う。

しかし、その厳しさは、単に根性を鍛えるためだけのものではなかった。

田中先生は、やられながら考えるようになる。

どうすれば怪我をしないか。

どう殴られれば、大きなダメージを受けずに済むのか。

その感覚は、やがて試合の場でも生きていく。

【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点
20歳前後の田中先生。ドレッドヘアに道着姿

練習相手はいなくても、ひたすらシャドーを続けた現役時代

18歳から20歳ごろにかけて、田中先生は出場した大会ではほとんど優勝や準優勝だったという。写真に残る当時の姿は、今の雰囲気とは少し違う。本人も「ピリピリしていたんじゃないかなと思います」と振り返る。

当時は、K-1が大きな人気を集めていた時代でもあった。高校の先生から将来について聞かれれば、「格闘技をやっていきます」と答えていたという。

「K-1に出られたら、それで食べていけるかな、くらいの軽い感じでした」

実際に、K-1のトライアウトに参加したことがあった。しかし、運営の変化などもあり、思い描いたようには進まなかった。

【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点
第13回新空手道関西大会での田中先生。選手として試合に臨んでいたころ

一方で、練習環境が十分にあったわけでもない。

16歳から18歳ごろまで厳しく鍛えてくれた御手洗さんは、田中先生が大学に入るころに独立することになる。田中先生自身も、最初はついていくのだろうと思っていたが、さまざまな事情もあり、そのまま誠空会に残ることになった。

高校生のころから子どもたちの指導を手伝っていた田中先生は、御手洗さんが担当していたクラスを引き継ぐことになる。子どもたちを教えながら、自分の練習も続けていった。

ただ、御手洗さんのようにミットを持ってくれる人は少なく、スパーリングの相手もあまりいなかった。

「結局、このときも一人でシャドーしていました。ほとんど一人ですね、よく考えたら」

小学生のころも一人で練習していた。誠空会に入ってからは御手洗さんや先輩たちとの厳しい稽古を経験したが、選手として活躍していた時期にもまた、一人で練習を続けていた。

僕がサボるために努力する理由

田中先生は、自分のことを「努力家ではない」と話す。厳しい稽古を経験し、試合で結果を出してきた人物の言葉としては意外にも聞こえる。

しかし、その言葉の奥には、田中先生らしい考え方がある。

「努力して意味がなかったら嫌なんですよ。できるだけ楽に、正しくできるのが一番じゃないかなと思って。結局、サボりたいんでしょうね。これを頑張れば、あとは楽になるんじゃないかなと思っているんです。

それでも、ちょっとは上に行きたい。そう思いながらサボるために努力をしているんだと思います」

人は、しんどいことを好んでするわけではない。好きなことでも、続けていれば必ずしんどい場面にぶつかる。そのときに、ただ我慢するのではなく、どうすれば楽に、正しく、上に行けるのかを考える。

田中先生にとって「サボりたい」は、単に怠けたいという意味ではない。無駄を減らし、正しい方法を探し、自分の興味があるものに向かっていくための考え方でもある。

「社会人なんておもんないで」と、子どもたちに言えるように

子どもたちを教える立場になっていた田中先生には、ある思いが生まれていた。

【第1回】孫悟空に憧れ、一人で型を磨いた少年。誠空会 3代目代表・田中幸尚先生をつくった原点
田中先生が指導していた子どもたち。かつての教え子がいまも道場に関わり続けている

「僕は昔から、学校とか社会の枠にうまく合わせることができないと言われてきたんです。

興味のないことを与えられてもできなかったし、学校に合わせることも得意ではなかった。けれど、いざ子どもを教える立場になったときに、社会人経験がないのは説得力がないと思ったんです。

『お前、社会人なんかおもんないで』と言いたい。けど、やったことないのにそれは言えないなって。だから、会社員になろうと思いました」

自分が知らないことを、わかったようには言いたくない。だったら、経験すればいい。そう考えた田中先生は、会社員として働くことを決める。期間は5年と決めていた。

空手を続け、子どもたちを教えながら、道場の外に出て社会を知る。その経験は、後に誠空会を引き継ぎ、道場を運営していくうえでも大きな意味を持つことになる。

第2回では、大学時代のバーでの経験、音楽との関わり、就職活動、そして海外営業として働いた会社員時代についてたどっていく。

取材・文/山田優子

写真提供/田中幸尚先生

第2回:バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと(5月29日公開予定

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体幹と心を同時に育てるキッズ空手

転びやすい・姿勢が悪い・集中が続かない — そんなお子さまの「土台」を、武道の稽古で根本から鎖えます。週1回から始められます。

FINAL CALL
記事を読んでくださって、ありがとうございました。

次の一歩は、池田・川西・宝塚の稽古場で待っています。
手ぶらで、いつでも。入会金無料は6月末まで

🥋 開講中の支部 ─ 池田総本部道場(大阪府池田市)/川西緑台支部(兵庫県川西市)/宝塚支部(兵庫県宝塚市)
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