【第2回】バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと

【第2回】バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと
ジャマイカのレゲエシンガー、ジョニー・オズボーンと田中先生
📅 公開 2026.05.29|⏱ 読了 約13分

道場に通えない時期も、一人で空手を続けていた田中先生。16歳で誠空会に入り、本当に強い大人たちと出会った経験は、その後の土台になっていった。

一方で、田中先生をつくってきたのは、空手だけではない。

大学時代に通ったバー、レゲエやDJとの出会い、ドレッドヘアでの就職活動、海外営業としてインドの現場に入り込んだ会社員時代。道場の外で触れた人や文化、場の空気は、やがて「自分の出し方」を考える力へとつながっていく。

第2回では、田中先生が道場の外で得た経験と、それが現在の指導や道場づくりにどう活きているのかをたどる。

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テキーラと頭突きで仲良くなったバーテンダー

田中先生が大学生のころにバーへ通うようになったきっかけは、意外にもシンプルだった。

「家族はお酒を飲まない。僕も強かったわけじゃなくて。だから、お酒が飲めるようになりたかった」

その店は、いわゆる静かなバーというより、パンクバーに近い場所だった。音楽好きが集まり、バンドマンが出入りし、店内にはDJブースもあった。

【第2回】バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと
田中先生がアルバイトしていた石橋のバー「RUDY」。レゲエDJの日に自作した看板。店長の息子さんは、現在誠空会に通っている。

初めて訪れた日のことをよく覚えていると、田中先生は笑みを浮かべる。まだお酒の飲み方もよくわからず、ジントニックのような普通の一杯を頼んだ。すると、バーテンダーからテキーラを出され、さらに勢いのまま頭突きまでされたという。

田中先生も、そこで引かなかった。

「小さくて、格闘技をやっていると思われなかったのかな」

テキーラを飲み、頭突きを返す。するとまたテキーラが出てきて、また頭突きされる。飲んで、返す。そんなやりとりを繰り返しているうちに、なぜか仲良くなっていった。

「永ちゃんが好きな人で、僕も親が聴いていたから好きですって。そこから仲良くなって」

その人がバンドマンだったこともあり、田中先生はバンドの手伝いをするようになる。やがて「お前もなんか音楽やったら」と声をかけられた。

そこで、DJをやってみようと思った。人前でやったことはなかったが、店にはDJブースがあった。それを機にバーテンダーの仕事を始めた。

「ほんまに意思はないです。この流れに身を任せていただけ」

この「流れに身を任せる」という感覚は、田中先生の歩みの中で何度も出てくる。自分から強く計画を立てるというより、目の前に現れたものに反応し、興味を持ち、気づけば次の場所へ進んでいる。

どんな経験もすべては自分の中の「選択肢」になる

田中先生にとって、音楽は一時期の趣味ではない。

幼いころからロックやレゲエ、ヒップホップに触れ、気になった音楽をたどってきた。大学時代にはバーでDJを始め、音楽の現場に身を置くようになる。現在も、レゲエアーティスト・NANJAMANのDJとして活動している。

【第2回】バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと
レゲエフェス「HIGHEST MOUNTAIN」で、NANJAMANのバックDJを務める田中先生

道場の代表でありながら、音楽の現場にも立つ。その姿は一見、別々の顔のようにも見える。しかし田中先生の中では、空手も音楽も切り離されたものではない。

「エッセンスとしてちょっと持っているから使えるんだと思います。それは格闘技の技にも関係するかなと思う」

何かを極めきっていなくても、少し触れてきたものは、自分の中の選択肢になる。

ギターを少し知っていれば、曲づくりや音楽の理解に活きることがある。格闘技も同じで、得意技でなくても使える選択肢を一つ持っているだけで相手は迷う。そうやって触れたものが、あとから別の場面で役に立つ。

当時、バーには外国人の客も多かったという。日常会話で日本語と英語を混ぜて話すうちに、それなりに会話できるようになっていった。これもまた、のちの海外営業につながっていく。

夕方になれば道場へ戻る日々

大学卒業後、田中先生はすぐに会社員になったわけではない。卒業後3年間は新卒扱いで就職活動ができると知り、「それなら、3年間遊べるな」と考えたという。

【第2回】バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと
バーテンダー時代の田中先生

その間、バーテンダーをし、道場で指導をし、音楽関係のつながりからさまざまな仕事もした。

「今日いける?」
「はい、何時までなら」

そんなやりとりで、ペンキ屋や内装の手伝いに行くこともあった。

「夏は、知り合いが須磨の海の家をやっていて、焼きそばをつくったり、お酒を売ったりしていました。お昼もごちそうになって帰るっていう。遊んでただけなんですよ。で、夕方に道場に戻ってきて練習すると」

自由に動いているようで、空手を手放すことはしない。違う価値観に触れながらも、夕方になれば道場に戻る。話を聞きながら、思わず「先生、真面目ですね」と言いたくなった。

ドレッドヘアで就活。「東京へ行くくらいなら海外」

就職活動にも、田中先生らしいエピソードがある。

新卒の就職活動中、田中先生はドレッドヘアだった。スーツ姿にターバンを巻いて、面接に行ったこともあるという。「どういうつもりですか」と聞かれると、ジャマイカの宗教や文化について説明した。

受けていたのは、商社やコーヒー会社など。理由は、レゲエのルーツであるジャマイカに関わる仕事ができるかもしれないと思ったからだった。

「まあ、落ちましたけどね」

その後、卒業後の自由な3年間を経て、田中先生は合同説明会へ行く。親にすすめられたこともあり、せめて一社くらいは話を聞こうと思った。そこで出会ったのが、音響の会社だった。

音楽やスピーカーに興味があった田中先生にとって、「音響」という言葉は身近だった。さらに、会社は宝塚に近く、車で通える。満員電車に乗らなくていいという理由もあり、面接を受けることにした。

面接では、「東京に行くのと海外に行くの、どちらがいいか」と聞かれた。田中先生は軽い調子で答えた。

「東京行くぐらいなら海外っすね」

すると、配属されたのは海外の部署だった。同期はTOEIC900点台の英語が堪能な社員ばかり。その中で、田中先生は理系出身でありながら営業に配属された。

「その部長さんが、会社の伝説の営業マンだったらしくて。『俺の一言で取ったんやから、ちゃんとやれよ』って言われて。『わかりました』って」

本来は、入社前にもう一度英語のテストを受ける予定だった。しかし、そのころ田中先生には旅行でニューヨークへ行く予定があった。

「ニューヨークに一人で行けるなら大丈夫だろうって、英語の試験がパスされたんです。いざ4月1日になって、僕、ほんまに入社しているんかなって思いながら、初日から車で行きました。『車どこに停めたらいいですか』って聞いたら、『変なやつ来た』みたいな感じで(笑)。そんな始まりでした」

フラットな好奇心が国境を越える

会社員時代、田中先生が主に担当したのはインドだった。3カ月ほど現地に滞在し、日本に戻り、また海外へ行く。インドのほかにも、韓国、シンガポール、タイ、ギリシャなどへ行った。

「インドは、みんな行きたがらなかったんです。話が進まないって。日本人のしきたりでやろうとするとうまくいかない。だから、このゲームをクリアしたいという感じでしたね」

うまくいかないときほど、どうすれば進むのかを考える。クリアできるようになると余裕が生まれ、さらに次の負荷を求めるようになる。

インドで田中先生が大切にしていたのは、上層部とのやりとりだけではなかった。むしろ、現場で働く人たちと仲良くなることを大事にしていた。

「現地の人が好きなんです。現地人の方がリアルじゃないですか」

一緒にチャイを飲み、雑談をしながら、現場の情報を聞く。仲良くなれば、助けてくれる人も出てくる。

「僕、なんでも聞いちゃうんですよ。よく、文化が違うから、こんなことを聞いたら失礼なんじゃないかって言うじゃないですか。でも、興味があったら『これ、どうなん?』って聞く。政治の話とか、歴史の話とか。そこから仲良くなることもあります」

この人は何に興味を持ち、何を考え、どんな背景を持っているのだろう。田中先生の人との向き合い方は、特別な社交術というより、もっと素朴な好奇心に近い。知りたいから聞く。面白いと思うから近づく。そのフラットな姿勢が、国や立場を越えて人との距離を縮めていった。

【第2回】バー、音楽、海外営業。田中幸尚先生が道場の外で得た「空手だけでは学べない」こと
ジャマイカ音楽を代表するシンガー・アルトン・エリスと田中先生

会社員時代に覚えた、尖りを少し薄めて出す力

「今日は空手の指導なんで帰ります」

会社員時代、田中先生は誠空会での指導も続けていた。定時になると誰よりも早く帰る。

最初は、周囲から反感を持たれることもあったという。しかし、会社の外でも道場での指導や別の仕事を抱えて動いていることが伝わると、少しずつ見方も変わっていった。

一方で、子どもたちの試合や指導の予定が、会社の都合で変更になることもあった。もともと会社員として働く期間は5年と決めていたが、そうした出来事が重なる中で、田中先生の中では「自分が何を優先するのか」がよりはっきりしていく。

田中先生にとって、空手と子どもたちの指導は後回しにできるものではなかった。そう考え、会社を離れることを決めた。

会社員時代を通じて、田中先生はルールの中で動くことも覚えていく。報告をする。勤怠を守る。締めるところは締める。そのうえで、自分が大事にしたいものを守る。

「僕、成果を上げればいいやと思っていたタイプなんです。なんで出社時間が決められるんやと。けど、それは管理しなあかんってわかると、しゃあないなって。

それが小学生のころはできなかった。学校の先生に、とりあえずこれをやれと言われても、嫌だって。だから、サラリーマンの経験で変わったのはそこかもしれないですね。

本来なら、街中で『ガチスパしよう』とか言い出すタイプなんです。そのほうが面白いんちゃうんかって。でも、そういうものを少し薄めて出せるようになったと思うんですよ」

自分のやりたいことを、そのまま相手にぶつけるのではない。相手や場に合わせて、伝わる形にする。その感覚は、音楽にも通じていた。

DJでも、自分の好きな曲だけをかければいいわけではない。知っている曲を織り交ぜながら、その日の客層や場の雰囲気を見て、何を出すかを考える。

男性が多いのか、女性が多いのか。どんな人が多く、どんな空気が流れているのか。そうしたものを咀嚼しながら、その場に合ったものを出していく。

「そうですね。出し方がわかったのかもしれない」

田中先生はそう言って、笑った。

バーで、音楽の場で、そして異国のビジネスの前線で身につけた「魅せ方」の感覚は、やがて伝統的な道場のイメージをがらりと変える武器になっていく。

第3回(最終回)では、突然訪れた代表交代の舞台裏と、田中先生が仕掛けるこれからの誠空会について迫っていく。

取材・文/山田優子

写真提供/田中幸尚先生

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